トヨタの最上級ブランド「センチュリー」コンセプトカーが世界初公開!豊田章男会長が語る「ジャパンプライド」と次なる100年への挑戦
2025年10月29日、トヨタ自動車の豊田章男会長は、同社の最上級ブランド「センチュリー」のコンセプトカーを公開しました。豊田会長はセンチュリーを「最後峰にして別の車」と表現し、「この車は日本を背負って生まれた」と、その特別な意義を強調しました。
新しいセンチュリーブランドは、単なる高級車ブランドではなく、「日本の心、ジャパンプライドを世界に発信していく」という重大な使命を担っています。
センチュリーは「次の100年を作る挑戦」
豊田会長は、初代センチュリーの誕生から半世紀以上が経過した今、日本が活力を失っているとされる状況に対し、「今こそセンチュリーが必要なのではないか」と訴えます。
センチュリーに刻まれた法王(鳳凰)のエンブレムは、単なる模様ではありません。鳳凰とは「世界が平和な時代にのみ姿を見せる伝説の鳥」です。したがって、センチュリーは「世界平和を心から願い、日本から次の100年を作る挑戦」そのものを体現しているのです。

豊田会長は、センチュリーを「トヨタ自動車のブランドの一つではありません」と明確に位置づけ、「ワンオブワン」(同じでないこと)の精神に基づき、ブランドを育てていく決意を表明しました。
開発の原点:喜一郎の志と「同じでないこと」の精神
センチュリーのブランド立ち上げの背景には、創業以来受け継がれてきた壮大な理念があります。
それは、豊田喜一郎氏が終戦直後の1945年11月に自動車協議会を立ち上げた際に込めた思いです。喜一郎氏は、「民主主義自動車工業国家を建設し、平和日本の再建と世界文化に寄与したい」と述べました。
豊田会長は、この「平和日本への貢献と世界文化への寄与」こそが、センチュリー開発の胸中にあった精神だと解釈しています。
伝説の主査、中村健氏の挑戦
初代センチュリーの開発がスタートしたのは1963年。終戦からわずか18年後のことです。開発を担当したのは、トヨタ初となる主査に任命された中村健氏でした。
当時、何の伝統も名声もないトヨタが「世界に通用する最高峰の高級車など作れるわけがない」という声が上がる中、中村氏はひるみませんでした。
中村氏が開発、生産、販売の全てにおいて一貫させた姿勢、それが「同じでないこと」です。
中村氏は、以下の信念を掲げました
- 流行は追わない。
- 見る人に夢を与え続ける車にしよう。
- 最新技術と日本の伝統の技を組み合わせる。
中村氏は、斬新なアイデアや革新的技術に挑戦すると同時に、鳳凰のエンブレムに江戸長金を、シート生地に西陣織を採用するなど、日本の伝統文化を大胆に取り入れました。

中村氏は、「伝統は後から自然にできるもの」「今までの高級車の欠点(アキレス)は、新しいことができないことだ」と語り、日本に生きる人間としてのプライド(ジャパンプライド)に支えられた車を生み出そうとしました。
受け継がれた魂:次なる100年へ
センチュリーは、中村氏と、喜一郎氏の息子である豊田章一郎氏(後に生涯の愛車とした)が、独身に泊まり込み、残業徹夜の日々を1年以上続けて作り上げた車です。カタログには「日本の実力を世界に示す格式高い車」として誕生したと記されています。

豊田章男会長は、このセンチュリーの挑戦こそが、現在の日本が持つ「ものづくりの技能」や「おもてなしの心」といった力を世界に発信し続けるために必要だと結論付けています。

豊田会長は、自身がこのブランドを立ち上げることを「豊田章一郎なき後の使命」だと捉えており、中村健氏のスピリットを受け継ぐ多くの仲間と共に、センチュリーブランドを育てていくことを決意したと語りました。
「皆さま、ネクストセンチュリーにご期待ください」
最後にこの言葉でコンセプトカー公開イベントを締めくくりました。
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